
Tokiwa Eisuke
コミュニケーションで気にする部分は人ぞれぞれという真実ー記号論とプレゼンテーション
多くの人にとってコミュニケーションには決まったルールがあるだろう。例えば
敬語を使う
笑顔で話す
相槌をうつ
相手の目を見て話す
といったことだ。これらを行わなければ「失礼」に値し、相手から嫌われやすくなってしまう。親子や友達から、恋人、仕事まで世の中はコミュニケーションによって成り立ってることが多いためこれらはとても重要視される。(失礼に値する行いは多い文化もあれば少ない文化もある。)
しかし世の中にはこれらを軽視している(逆に言えば違うものを重視している)人々もいる。コミュニケーションが上記のような手法(ルール)と目的・内容で構成されているとすれば、手法よりも内容を重視している人たちがいるのだ。例えば比較的そういった人たちが多い界隈は、
研究や学問
エンジニア
スポーツ
といった分野である。なぜ手法にこだわっていないのかといえばとても単純で、手法を改善することに時間を費やしているのではなく、内容を改善すること=学習や練習することに時間を費やしているからだ。まず重要なのはこのようにコミュニケーションで重要な部分は経験によって変わるということだ。
彼らは学習・練習の中で、物事を突き詰めて多くのことを分析しているため、何が大事なのかをある程度知っており、それが彼らの目的・信念・評価基準・倫理観になっている。その基準があるおかげで(せいで)、良いことは良いと評価するし、悪いことは悪いと評価し、発言したり行動したりする。
「時間」に関わってくるので、若ければ若いほど「手法」か「内容」に時間を使ってきたことが顕著に表れてくる。手法をあまり知らない若者が正しい基準をキツイ表現で言ってしまうことで、内容よりも手法を気にする人たちから、内容よりも「キツイ表現」だけを切り取られてしまい、「嫌なやつ」として嫌われてしまうことがよくある。
ここでよく表現を気にしない人が言われるのが「無駄に支援者を減らす」というものだ。つまり学習・練習していてとても頑張っているため、色んな人から支援されることでもっとその学習・練習の成果が出やすくなるのに、その「色んな人」が手法を気にするため支援者にならなくなる、ということだ。
しかし果たして手法ばかり気にしてきて学習・練習してこなかった人が本当に価値ある支援者になるのだろうか?
私が知る限り、学習・練習している人たちはとても人数が少なくコミュニケーションも下手でも、自分のできない・知らない部分も知っているため実はとても謙虚である。だから同じく学習・練習しているコミュニティの中ではとても他人に対してやさしい。
一方で、手法ばかり気にする人たちは中身がないわりに相手が手法を間違えば「失礼」となり怒る。とても高圧的で支配的である人たちが比較的多いように思う。しかも手法さえよければ取り入られることもできるため、むしろ悪者はここに集まりやすい。ビジネスで法的にもお金的にもこんな人たちと出会ってしまった人たちを割と見かける。
さて、それでは自分自身がコミュニケーションを行う際にどちらと比較的仲良くなりたいか、ということである。例えば大勢の前でのプレゼンや、相手がどんな人なのか分からない面接の場である。手法を気にする人たちは人数が多いが能力が比較的低い一方で、内容や目的を気にする人たちは能力が比較的高いが人数が圧倒的に少ない。
コミュニケーションを行う上で準備段階からその選択は迫られる。例えば手法にこだわるのならどんな手法がいいのか調べる必要があるし、内容にこだわるなら自分の考えはどこまで正しいのか調べなければならない。時間は有限であるためどちらかを選んで効果を最大化したほうがいい。
ただもちろんだが学習・練習している人でもその中で解釈の違いはありうる。例えばたくさん勉強したうえで日本の市場はもう終わりだと考える人もいれば、まだいけると考える人もいる。それはコップに入った半分の水がまだ半分あると思うか、もう半分しかないと考えるのと同じで、おそらくそれまでの経験や環境によって解釈の違いがでる。そこで意見が合わないのは仕方のないことであるが、ここでもどっちの派閥と仲良くなるかは選ぶ必要がある。
つまりこれがまさに「類は友を呼ぶ」に繋がっていくのだ。手法を気にする人に会ったとき、その人の所属するコミュニティはおそらく手法を気にするし、目的を気にする人にあったとき、その人の所属するコミュニティはおそらく目的を気にする人が比較的多くなる。
周りは自分の鏡であり、芋づる式である。残念ながら育った環境、経験してきたことによって人は感情が形成され、何に共感するのかほとんど決まっているのである。そういう意味で、経験や環境の数だけコミュニケーションの表現方法は多様化するのだ。(ここでやっと記号論と関わってくる)
何が言いたかったかというと、コミュニケーション中に使う表現次第で共感される人が変わる=誰が仲間になるのか変わる、ということだ。そしてそこに自覚的であることによって、知らない間に嫌われて「なんで分かってくれないんだ」という苦しみを感じることもなくなる。