• Tokiwa Eisuke

ミッション"全員基本的幸福"にいたるまでの哲学的議論

更新日:8月19日


このミッションができるまでには、私の10年間の多面的な社会活動(国内外の政策提言やNPOの活動など)という時間と労力を費やしているからです。


そこでできた「全員基本的幸福」ですが、ここには大きく3つの論点があります。「幸せ」「基本的」「全員」です。


「個人の幸せ」を重視することを選んだ


まず最初の大きな決断は「個人が幸せになること」を目指すと決断したことでした。


「ん?そんなこと当然じゃない?」と思われるかもしれませんが、調べてみれば個人の幸せ以外にも重要なことはいくつかあります。例えば、

・死後、天国に行けること ・家族に名誉があること ・国家が繁栄すること ・自由の範囲が広いこと ・科学や経済によって人類が進歩する

自分自身の幸せよりも、自分が所属している家族や国家、果ては人類までを大事にしていることはあり得ますし、歴史的にあり得ていました。(例えば家族と別れて戦地に赴くことや、過労死してでも企業の売上を上げること)


「天国に行けること」は「生きている今が不幸でも死んだら幸せならいい」という意味です。各種・新旧の宗教では様々な方法を行うことで天国にいきやすくなりますが、本当に天国いけるかどうかは証明されていません。ただ信じるのみです


もちろん、それらが本当に個人にとって幸せならいいんです。他の何にも代えられないものであればいい。「それが”結果的に”自分の幸せになる」という人もいると思います。


他のデメリットやリスクが存在することを納得して、あとで「騙された!」「おかしいよ!」とならないなら良いんです。それらが自分の幸せを達成するための”手段”だと理解していればいいんです。


しかし私が「個人の幸せ」を選択したのは、本当に納得しきれる人はごくわずかであり、実際のところ環境や他人によって視野が狭くされていることが少なくないと思ったからです。


宗教なら、宗教改革時の教会がお金を集めるために信仰を利用したり、

家族なら、時代ごとに生まれる価値観が親子の間に価値観の溝を生んだり、

国家なら、国家繁栄のために奴隷制度や強制的な出兵がまかり通ったり、

自由なら、自己責任という形で貧困や病気になった人を切り捨てたり、

科学や経済なら、どんなに生活が便利になってGDPが増えても自殺者が存在したりするからです。


だから私はまず自分で納得している方法で幸せになることが重要だと考えています。

では個人の幸せとはなんでしょうか?次の論点です。


「基本的な幸せ」を重視することを選んだ


幸せにも色んな定義の仕方が存在します。例えば、

・意識的に感じるものなのか、無意識的に存在するものなのか ・自分から望むものなのか、他人に与えられるものなのか ・頭を使って気づくものなのか、肌で感じるものなのか ・定量的に計測できるものなのか、定性的に確認できるのか ・何でもしたいことができることなのか、そうではないのか

この点において、「人間の心」がまだまだ完全に解明されていないため(されてたら”強い人工知能”がすでにできてる)、完全な答えは出せません。


しかし近年、幸せとはなにか「科学的に」研究されていて、少しずつではありますが分かってきていることがあります。


例えば、年収は700-1千万円ぐらい(研究によってまちまち)から幸せの量が増えなくなります(参照。つまり2千万円かせいでも700万円の幸せと変わりません。


日本では、この分野は慶応義塾大学の前野隆司教授が有名です。人間が幸せを感じる原因・理由は大きく4つに分けることができます(参考)。

1、自分のやりたいことをやる(自己実現と成長) 2、人間関係を問題なくむすび、感謝し、される関係(繋がりと感謝) 3、物事に対してポジティブに受け止めることができる(前向きと楽観) 4、自分が他人から影響を受けないし、他人と比較して良い悪いと感じることもない(独立と自分らしさ)

ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史~文明の構造と人類の幸福」の中でも幸福について以下のように述べられています。

「幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえも、それほど左右されないということだ。幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる。あなたが牛に引かせる荷車が欲しいと思っていて、それが手に入ったとしたら、満足が得られるだろう。だが、フェラーリの新車が欲しかったのに、フィアットの中古車しか手に入らなかったら、自分は惨めだと感じる。」

もちろん、人それぞれ違う幸せの感じ方もあります。これを幸福の多様性と私は呼んでいます。例えば、激辛フードが好き、インスタグラムで加工するのが好き、SMプレイが好き、リスクの高いスポーツが好き、などです。


でもまだまだ世界中で基本的幸福が満たされていない人はたくさんいます


自分自身もそうでしたが、自分の基本的な幸福が満たされていないからこそ、虐待やDV、いじめなどで他人を傷つけてしまうと私は考えています。


「全員の」幸せを重視することを選んだ


ではなぜ、21世紀の現代において、いまだに誰も傷つけない・傷つけられずに、基本的な幸せを感じることができていないのでしょうか?


19世紀前半にジェレミ・ベンサムという哲学者・経済学者・法学者がいました。この人が「最大多数個人の最大幸福(The Greatest Happiness of The Greatest Number)」という理論を打ち出しました。

これは何かというと、「個人の幸福の合計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という考え方です。功利主義とも呼ばれます。


これはもちろん理想的に解釈すれば、「最大多数」は「全員」ですし、「最大幸福」も「お互いの我慢も必要ない」状態です。グラフにするとこうです。


でも実際はどうでしょうか?年収700万円の人が基本的に幸せだとして(それでも問題がないわけではないとして)、日本では人口の約10%ほどだと言われています。グラフにするとこうです。

これは年収700万円絶対必要という意味ではなく、「年収700万円あれば最低限ほしいものが買えて、さらに自分の好きなものが買えたり、自由な時間が手に入る」ということです。


なので、年収700万円なくても、最低限必要なものが手に入ったり、自由な時間があったり、先ほどの前野教授の指標などが満たされていることが重要です。


ちなみに基本的幸福ラインは以下の図で説明できます。不幸領域がなくなるところがそれにあたります。


また、個人と個人の欲望は必ずぶつかります。例えば、大学受験や就職試験で合格する枠は200名だとすると、500名が受かるわけではありません。選挙においても多数決で51人対49人なら、49人は不幸になります。


これは個々人を幸せにする(個々人の問題を解決する)仕組みとして、資本主義と民主主義を採用すれば限界が見えてきます

お金のある人は製品・サービスを購入すれば自身の問題を解決できます。他人と共感しあって徒党を組める人は多数決によって自身の問題を解決できます


一方で、貧困かつ少数派の人たちは自分の力以外で問題を解決することができません。自力で解決しようにも、自分の力に肯定感を持てる人なんてその部類にはごくごくわずかしか存在しません。

貧困かつ少数派の人たちは、もちろん全員ではないですが、一定数が虐待やDV、いじめ、犯罪などの加害者になってしまい、さらに被害者を作ってしまうのです。


貧困かつ少数派の人たちを管理する人たちは、彼らは票田にもならなければ、市場にもならないので、弱いものを助けようという道徳でもない限りは、たいていは無視します(トランプ大統領とその支持者は弱いものをどう扱っているでしょうか?)。


これらによって今の社会システムでは全員が幸せになることは絶対にできないのです。


ミッション「全員基本的幸福(Universal Basic Happiness)」


私たちは「全員が基本的に幸せになることができる」ことを目指します。グラフにするとこうです。

個人の幸せを優先するので、天国に行けないかもしれませんし、経済も科学も発展しないかもしれません。(個人の幸福度と生産性は相関しますが)


基本的な幸せを優先するので、すべての欲望を満たすことはできませんし、ある程度我慢が必要になってきます。


全員の幸せを優先するので、自由はある程度制限されてしまいます。(人間は理性的ではないので自由では上手くいかない)


ちょうどイメージするのはデンマークやフィンランドなどの税金が高い北欧のような状態です。ただ北欧各国ですら全員が幸せではありません。


これを名付けると「全員基本的幸福(Universal Basic Happiness)」です。インカム(収入)よりもハピネス(幸せ)を重視します。本来重要なのは幸せだからです。私は手段を目的には絶対にしません。


そして民主主義と資本主義を採用している限り全員が幸せにはなれないので、次の社会システムを模索するために研究していきます


その研究のために、大学・シンクタンク・銀行・美術館も将来的には必要になってきます。一過性の流行で終わらせてはいけません。


ある程度の新しい社会システムの仮説はあるので、それは弊社の顧客になったユーザーにのみ提供してみて、どんどん改善していきます。